小樽を物語る灰皿
先日、戦前の小樽の「ハイカラ」度がいかに高かったのかを知る資料をいただきました。資料名としては「灰皿」なのですが、陶製のデザインが洒落ています。
中央に灯台が付いた防波堤、手前の湾内には大型の船が浮かんでいます。港には第一から第三までの埠頭、右側には高架桟橋がつきだしています。市街地中央付近の小山は水天宮。赤い線は国鉄線を表しているようです。小樽、南小樽、築港はもちろん、手宮、色内が記された手宮線、さらには築港から埠頭に「臨港線」も伸びています。背後の山がちょうど灰皿のふちになっています。
小樽を愛した小林多喜二の文章に「人口十五六万の、街並が山腹に階段形に這い上った港街で、広大な北海道の奥地から集まってきた物産が、そこから又内地へ出て行く」というものがあります。残念ながら認定はされませんでしたが、地域型日本遺産「北海道の心臓と呼ばれた町」のタイトルはこの後に続く文章に基づいています。小樽の街の地形とその歴史を端的に表した表現だと思います。この灰皿は、たいへんかわいい仕上がりですが、おなじく小樽の地形を表したものと言えます。小樽市では今後も「北海道の心臓」を含めた形で、日本遺産の活用を図っていくのですが、ぜひこのデザインをどこかで採用していただきたいものです。
時代を反映した灰皿
もう一点の灰皿は日本のほかに「満州国」「ナチスドイツ」「イタリア王国」の国旗がつけられたものです。「日独伊防共協定」に「満州国」が加入したのは昭和14(1939)年ですので、そのころのものでしょう。側面に「高野食糧品店」とはいっていますので、販売促進用のものであったと思われます。
これを見ても、先ほどの多喜二の文章の続き「時代的などんな波の一つも、この街全体が恰かも一つの大きなリトマス試験紙ででもあるかのように、何等かの反応を示さずに素通りするということはない。」が思い浮かびます。いろいろな意味で、20世紀前半の小樽を物語る灰皿です。