恵比須屋岡田家
滋賀出身の商家である恵比須屋岡田家の小樽における活躍について、岡田家文書(滋賀大学経済学部附属史料館所蔵)を使用し、とりわけサハリン島の漁場経営との関係に焦点を当てます。
岡田家について、遅くとも18世紀後半に松前藩からヲタルナイ(のちの小樽)の「場所請負」を任され、アイヌ民族との交易やニシン漁などに従事したことがよく知られています。ところが、幕末の元治二(1865)年、ヲタルナイの「場所請負」が停止され、「村並」(本州の村に準じる扱い)となった際に請負人を廃されてしまいます。これまでその後、どのような活動をしていたのかについては詳しく知られていません。
結論から述べれば、明治になると松前から小樽に支店を移し、新しい事業(土地・鉱山・漁場経営など)に数多く着手します。
この頃は、11代当主の八十次が店を取り仕切り「大三」という印を使用していました。支店は小樽堺町郵便局の辺り(メルヘン交差点近く)にありました(現在:ヲタルナイ運上屋の看板あり)。
写真は、支店の銅版画(明治22年)と商品の買入証文(明治24年)で、数少ない当館所蔵の岡田家に関する資料です。
サハリン島の漁場経営
小樽を通したサハリン島でのニシン・マスの漁場経営について調べたことを紹介します。経営開始は明治22年です。サハリン島南部のアニワ湾沿いに、多い時には14もの漁場を管理していたようです。「仕込帳」(明治33年)によれば、漁夫は青森や富山から小樽経由で自家で所有する汽船で運搬され、漁業に使用する漁具のほか食料を含む生活用品もすべて一緒に持ち込んでいたことがわかります。そこで興味深いのは、少数とみられますが、ロシア人を雇用した形跡も見られる点です。
次に紹介したいのは、明治26年に小樽をサハリンの漁業出稼ぎの渡航場とするよう八十次を代表として30人にものぼる小樽の財界人たちで北海道庁長官へ請願を出している件です。そこには、漁業家に限らず、小樽の様々な業種の人々が名を連ねており、サハリンでの漁業に対する期待の高さが見受けられます。これは当時、極東地域の漁業基地が函館であったことへの対抗心があったのかもしれません。
実際に小樽とサハリン島の漁業に留まらない経済交流が盛んになるのは、日露戦後に南部が日本領になってからのことです。しかし、その先鞭をつけた1人として八十次がいたことは記録に留めておいてもよさそうです。