小樽運河埋立工事-トロッコ用線路
今回は明治時代の埋立についてご紹介します。
前回、明治中期頃までの埋立による海岸線の移り変わりを紹介しました。この時期の埋立は明治14(1881)年に定められた「小樽港海面埋立地仮規則」により「埋立ハ一人凡ソ三百坪ヲ限リトス」「埋立願人ハ相当ノ資力アルモノニ限ルベシ」とあり、海岸線の地主による小規模なものでした。

総合博物館所蔵の明治30年ころの手宮地区の写真に、この時期の埋立工事が写っています。現在の製罐工場向かい付近、龍宮橋の近くですが、画面の右下に線路と人だかりが見えます。

これは土砂を運ぶトロッコ用の線路で、人力により、海面を埋め立て、突き固めている様子がわかります。このような土砂運搬用のトロッコの線路は市内の海岸近くには多く敷かれたようです。
トロッコ用線路

この写真は入船陸橋を西側から見たものですが、画面下に入船川とそれに並行して走る線路が見えています。この絵葉書は明治末のものと推定しています。
土砂はどこから?
では、この線路で運んだ土砂はどこで採掘したものなのでしょうか。

その主力の場所は花園付近にあった尾根でした。
写真は造成直後の花園地区と、その削り出した土地に建てられた庁立小樽高等女学校がみえます。そこにもレールがあり、この造成工事ででた大量の土砂を運んでいました。
このような埋立工事は、明治後期には小樽港全体の整備計画に組み込まれていきます。