海岸の埋め立て、そして運河へ
小樽の本来の海岸地形は、岩礁または小規模な砂浜で、明治初期の小舟に積み替えての運送には適していました。しかし、やはり舟を陸付けした方が荷役作業は効率的になるため、上の写真のように個人による小規模な埋め立てが行われてきました。
この写真は、明治15(1882)年発行の写真帖に掲載された、入船川河口の光景です。奥の平坦部のまわりに石垣と木柵が回っており、内部に土砂を入れ埋め立てていきました。
砂崎町
現在の堺町通り付近は岩礁が続く場所でしたが、高島と市街地を結ぶ交通路として重要であったため、大規模な埋め立てが行われました。小樽港の目印でもあった「立岩」まで石垣を伸ばし、まず船入り澗の様な形状としたのち、内部を土砂で埋め立て「砂崎町」と名付け、道路だけではなく商店や倉庫が建ち並ぶようになります。
明治30年ころの運河付近
下の写真は明治30(1897)年ころの南濱(現在の運河付近)です。埋立が続き、波打ち際は岸壁のようになっていますが、よく見ると、土盛りみであったり、石がゴロゴロしたままであったりしています。
この10年後の写真ではきれいな石積みの岸壁となっていますので、色内付近が大きく姿を変える直前の写真なのでしょう。このように小樽の海岸は埋め立てにより、どんどん東側に伸びていき、そこには倉庫群が建ち並ぶようになります。