ジョン・ミルンの報告書
モースが小樽を訪れた明治11(1878)年夏、もう一人のお雇い外国人が小樽で調査を行っています。英国人の地震学者 ジョン・ミルン(John Milne、1850 – 1913)です。
ミルンは現在の地震学の基礎を築いた人物として知られていますが、来日前から考古学や人類学の研究も行っていました。ミルンは千島列島の火山調査の途中に小樽に立ち寄り、手宮洞窟の調査を行い、初めて公刊された報告書を執筆することになります。
一方、モースもすぐそばに上陸し、手宮の丘で発掘をしているのですが、手宮洞窟には触れていません。のち(1880年)に、その報告に掲載されたミルンのスケッチについて、米国の専門誌に「人を誤せる最もひどいものである。」と酷評しています。モースは「日本考古学の父」なのですが、手宮洞窟の貴重さを判断できなかったようです。
ミルンの報告書「Notes on stone implements from Otaru and Hakodate, with a few general remarks on the prehistoric remarks of Japan」(小樽と函館における石器についてー日本の先史時代の遺物についての若干の考察)には、詳細な観察とともに、手宮洞窟陰刻画の解釈などについて触れている、基本文献です。
ミルンが見た手宮
さて、その中でミルンは、手宮公園の植生、木立について記述しています。丘の周辺に「竪穴」らしきものを見つけ、それが考古学的な遺構ではなく、木の根を抜いたあとではないか、と指摘した後に「小樽の背後にある丘と海岸線の間には大きな樹木はほとんどない(destitute)ことを指摘しておきたい」と書いています。これは手宮だけではなく「このような樹木のない光景は、周辺の例えばKyonoma:茅沼か?)などでも観察できた」として、北後志の海岸線がかなり「はげ山」に近い状態であったと書いています。ミルンは「薪も原因か」としていますが、幕末からすでに奉行所などから「植樹」の指示が出ていることからも、ニシン粕製造のための燃料として多くの場所で樹木が切り払われたことを示すものだと考えています。
ミルンはまた手宮洞窟背後の崖について「この崖はおよそ100フィート(約30m)の高さがあり、背の低い樹木(small trees)で覆われている。」としています。
私たちが目にする、今の小樽の豊かな自然の150年前の姿はまったく別のものだったと考えるべきでしょう。