赤岩山
以前から疑問に思っていた「赤岩山」と「下赤岩山」の名称(俗称)の謎について紹介させていただきます。
その謎とは、明治期頃には現在の「下赤岩山」が「赤岩山」と呼ばれていたことが一般的ではなかったか?ということです。
「下赤岩山」=「赤岩山」?
まず、疑問のきっかけとなった絵地図(明治16年)から紹介しますが、現在の「下赤岩山」が「赤岩山」と記載されています。
それから「小樽新聞」の明治36(1903)年8月25日のある紀行記事の記述を一部抜き出すと「手宮裡(うら)町より本田農場道路を上り、赤岩山を右にして山中大三の道を上る」とあります。これは現在でいうと、手宮地区から「本田沢通り」(バス通りの一本海側で末広町と梅ヶ枝町の境となる通り)を抜けて、旧北山中学校の近くを通り山中海岸方面へ向かう道を指していると思われます。それならば「赤岩山」は左手になるはずなのに、右手と表現しています。
つまりこうした資料からは、どうも今の「下赤岩山」を「赤岩山」と呼称することが多かったのではないかという推論が成り立ってきます。
確かにのちにロッククライミングでも有名となる「赤岩」といわれる岩場のエリアは「下赤岩山」の北側に有りますので、筋の通った呼称とも言えそうです。
まだまだ論証可能な資料が少ないので、引き続き資料の発掘に励みたいと思います。