伝単(宣伝ビラ)
「伝単(宣伝ビラ)」をご紹介します。
表には当時米軍の最新鋭爆撃機であったB29 と小樽を含めた12の都市名、裏面には「日本国民に告ぐ」と題された空爆の予告が書かれています。いずれも、大都市ではないものの、地域の拠点となっていた都市名です。昭和20年8月2日にまかれたものということが判明しています。(伝単の採集地は岐阜県高山市)
この12の都市の中で、小樽を含めすでに7つの都市が空襲を受けていましたが、この予告の後にB29などによる、大規模な空襲を受けた町もあります。被災しなかったのは高山市と鳥取市の二つだけでした。
終戦
そして、市井の人々には「突然」8月15日を迎えることになります。
当時の稲穂女子国民学校(現在の稲穂小学校)の教員の日記が当館に所蔵されており、玉音放送があった8月15日に記載はありません。翌々日17日の記載から衝撃が大きすぎて、気持ちの整理ができなかったことがうかがえます。著者は当時23歳。幼少期から軍国教育の中で育ち、「まじめで熱心」な教員となったがゆえに、子どもたちにも「軍国教育」を懸命に行っていました。
その信じてきたものが瓦解したショック、児童たちに対する責任感など入り混じった記述があります。
「こういふ事になつて学校で子供達と相まみへやうとは。子供にむかひても涙なく、声なく、ただぎやう然と立つのみ。(中略)国かくなる時は死あるのみと育つ。又二、三、四、六と四年を手かけし子等へも、かくなるときは日本人たるもの死のみと教ふ。この子等の前に立ちて何をかいへん。(中略)小さき子等をして、今後の日の本の子たる事に恥じたり、ひけ目を感じさせる事は忍ぶにたへず。(中略)たとへ五体千々にくだくとも日の本の赤子たるもの、生き抜く事あるのみ。(後略)」
若い純粋で熱心な教師が迎えた終戦については三浦綾子の「銃後」にもえがかれています。戦争の恐ろしさは、純粋な若者がのめりこんでいくところにあります。「熱狂」が国民一人一人にもたらすものを今一度考える機会としたいと思います。
なお、この教員の日記は平成24年の当館紀要25号に一部掲載(山本侑奈「戦時小樽における教育資料の紹介」)しています。ご興味のある方はそちらをご覧ください。