運河誕生
明治30年代になると、小樽港は取り扱い貨物量で函館港を上回り、文字通り「北海道の玄関」となります。入港船数の増加に伴い、それを運ぶ艀等も増加し、岸壁での渋滞が問題となります。

その解決策として、「埠頭(ふとう)方式」と沖に人工島をつくる「運河方式」の二つの案がでますが、大正に入り、人工島の埋立が着工され、残された海水面は「運河」として登場します。
埋立工事の風景
大正3(1914)、現在の運河公園付近から区営埋立工事がはじまり、新しく出現した人工の島と岸壁の間の海は次第に溝状の「運河」の姿になっていきます。工事は北から順番に島を造成しながら進み、大正7(1918)年、いよいよ船溜まりや移民休憩所があった部分を掘っていく第三工区に着工します。

上の写真は小樽倉庫前の船溜まりなのですが、消印の右側に埋立工事用の石垣が見えています。艀荷役と並行した埋立工事はかなり込み合っていたようですが、一方で完成した第一工区、第二工区では艀の舳先を並べた荷役作業が展開しています。
工事の横では…

「小樽運河での荷役作業」の光景でよくご紹介する写真ですが、右側を見ていただくと、第三工区が造成されている様子が写り込んでいます。
埋立工事の完了
小樽港の荷役を停止せず続行された埋立工事は大正11(1923)年12月27日に完了届が受理されます。とてもお役所的な日程ですが、これで小樽港修築工事のうちの埋立工事は完了し、その副産物である「運河」も全容を現わすことになります。ただ、上記したような状況でしたので、完成した部分から随時使用されていました。

完了直後の埋立地は空き地状態でしたが、すぐに倉庫が建ち並び、その後、昭和の冒頭くらいには現在の姿になっていきます。
