最盛期の運河
大正12(1923)年12月27日、市営(区営)埋立工事の完了届が道庁に受理されます。このころの南浜町周辺の様子が『稲垣日誌』第33巻に描かれています。
「序に浜町から埋立地に出て、富岡町を散歩した。僅に見ない間に、変化してをるには驚いた。三菱銀行、第一銀行、拓殖銀行の建築も、着々進行してをる。第一火防線突当りに浅草橋が架ってをる。(中略)そして移住民休憩所の前あたりは、運河になると見えて、堀崩してをる。埋立における変化は随分甚しい。」(大正11(1922)年9月1日)
この「運河完成」を記念するイベントは翌年、誕生したばかりの北海製罐を会場に実施しました。ただし「運河完成」ではなく防波堤を含めた「小樽港修築工事」竣工を祝うものでした。政府からは当時の内務大臣、若槻禮次郎が出席しました。
祝辞の中で若槻は「北海道拓殖事業ノ進展ト共ニ長足ノ発達ヲ遂ゲ(中略)天与ノ良港タルヲ加ヘ、莫大ナル国幣ト市費ヲ投ジテ人工的工事ヲ施シ(中略)本港ノ繁栄ハ更ニ一層観ルベキモノアルベシ」と述べ、防波堤、「運河」などの小樽港全体の機能が改良され、さらなる発展を期待されています。
小樽港の発展
実際、完成の3年後の写真からはすでに人工島、すなわり運河の海側には石造、RCの倉庫が次々と建設されている状況がうかがえます。
大正3(1914)年の着工時には、入港船数4,239隻、総トン数4,897,587トンであったものが、完成3年後の大正15(1926)年には入港船数5,982隻、総トン数11,132,484トンへと飛躍的に増加しています。
ただ、これは「運河」だけの効果ではなく、小樽港の飛躍期であったためであり、そのため、完成後すぐに「埠頭建設」の声が上がります。