運河保存の動き
小樽港で石炭の取り扱いが終了した昭和40年代、「運河」をめぐる情勢は大きく変化します。
昭和41(1966)年、市内で深刻化していた交通渋滞の解消策を兼ねて、「運河」を埋め、3車線道路を建設する計画が持ち上がります。これに対し、日本建築学会が「運河」と周辺の倉庫群の歴史的価値を評価するのですが、まだ研究者たちの動き、という風にみられていました。
それが札幌オリンピックに向けて札樽自動車道につながる道路の整備により、有幌の倉庫群が姿を消すという光景を目の当たりにして、市民の間から「保存」の声が上がり始め、昭和48(1973)年、「小樽運河を守る会」が発足します。
この保存運動の盛り上がりをうけ、小樽市も運河周辺の倉庫群について調査を始めていきます。
倉庫群の調査
次にご紹介する図や写真は昭和50(1975)年に作成されたもので、当時の倉庫の使用者名などが記されたものです。
私たちは、「運河」周辺の景観は歴史的なものが守られていると認識していますが、昭和50年代の写真を見ると、倉庫群がかなり減少していることがわかります。
「運河保存」か埋立か、このいわゆる「運河論争」は以後10年以上続くことになります。