張碓越え
JR函館線の銭函ー朝里間、特に張碓のいわゆる「神威古潭」は江戸時代から難所として知られていました。
安政4年(1857)に長岡藩士、森一馬によって記録された『罕有日記』では「此岬下を行事の人を見るに騫崩れたる岩角を襷伝ひ或は匍匐して獣行す。恐るべきの難所なり。」とあります。「獣行」とは四つん這いになって進むことで、這って進まなければならないほどの場所と記しています。

明治3(1871)年に作成された『北海道新道切開図』の「ゼニバコの怪魚」には切り立った崖と波打ち際の間を通る様子が描かれていますし、明治4(1871)年にここを通過した鵙目貫一郎(小樽郡教育所初代教授)は「猿攀匍匐」(えんはんほふく:猿が四つん這いになってのぼるような厳しい崖)と、その危険な様子を描いています。

車馬道の整備
開拓使本府が札幌に置かれると、最寄りの港である小樽港と札幌を陸路で結ぶことになりなすが、幕末に作られた道は、ご紹介したような難所でした。大きく状況が変わるのは、明治12(1879)年にクロフォードによって「車馬道」が整備されてからになります。

そして、その車馬道の上にレールをひいて開通したものが「官営幌内鉄道」です。それが現在もJRの線路として使用されているわけですが、冬の暴風雪のような天災だけではなく、海岸沿いのこの部分は、国防上も問題がある、と考えられた時期があります。
軍事道路
その解決策とされたものが、日露戦争後に作られたいわゆる「軍事道路」です。

龍徳寺の前から潮陵高校の横を通り望洋台、朝里をへて張碓に抜ける道です(地図の黒線の部分、赤はその後開通した国道5号)。しかし、この道は急な坂道、カーブが多いこともあり、あまり利用されなかったようです。
悪天候の場合、この軍事道路はう回路としては役に立たなかったのではないでしょうか?車馬道でも軍事道路でも解決しなかった張碓越えの問題は、北海道新幹線開通まで続くことになるのでしょうか?