運動会
運動会は北海道では初夏の行事として、さらについ先ごろまでは地域全体の一大イベントとして定着してきました。
ではその始まりはどうだったのでしょうか?この手の学校行事は札幌師範(現 北海道教育大)が始まりだと思っていましたが、北海道の最初の小学校運動会は松前でした。この点については、鈴木敏夫 2003 「北海道における小学校運動会の起源」(北海道大学大学院教育学研究科紀要 89 )に詳述されています。
運動会の始まり
そもそも、「運動会」の始まりは明治7(1874)年、東京の海軍兵学寮でイギリスの競技会を模した「競闘遊戯会」であるといわれています。その後この催しは明治11(1878)年6月に札幌農学校でも行われました。
鈴木氏の研究によれば、北海道における最初の小学校の運動会は、明治19(1886)年 6月に開催された、松前郡松城小学校運動会です。小樽近郊では明治21(1888)年4月に実施された札幌師範学校附属小学校の例があります。
連合運動会
小樽では同じ年の10月の例が確認できるもっとも古い例であり、道内最初の小学校運動会である松城小学校の2年後、札幌師範附属小学校の半年後と極めて早い例です。
しかも小樽では始めから「連合運動会」として開催されています。当時小樽港周辺で開校していた、量徳、手宮(のちの色内)の公立学校ほか、私立の開蒙、同致学校も加わり、4校で実施されました。松前、札幌の例は単独校の開催であり、なぜ小樽では当初より「連合」で開催されたのかは資料が残っておらず、不明ですが、札幌師範で開催された運動会を小樽でも、と考えた関係者が周辺校に急遽声をかけて実施したのではないか、そのために秋の開催になったのではないかと推察しています。
この第一回連合運動会の開催場所は、量徳小学校裏手の空き地、住吉神社前の広場(現在の協会病院から小樽市立病院駐車場付近)でした。この「連合運動会」会場は学校数の増加や人口の爆発的な増加に伴う児童数の増加などにより手狭となりました。そのため明治32(1899)年からは、小樽公園グラウンドで開催するようになりました。小樽公園の本格整備は明治40(1907)年以降ですが、一説にはその手つかずであったグラウンドを整備する要因に連合運動会開催があった、とも言われています。
会場移転の4年後、明治36(1903)年に稲垣益穂が稲穂小学校校長として赴任した時点ですでに連合運動会は小樽最大のイベントの一つとなっていました「午前十時頃から場の周囲にみちみちて宛然堵を築いた様で無量三万人と注せられた。」(第36巻:明治36年5月8日)とあり、すでに観客が3万人という数になる大きな行事となっていたことが記されています。さらに翌年の日記には「小樽の運動界では、小学校の連合運動会、第二はボート競漕会、第三は自転車競争会、これ等は皆見物人を吸収する事の多き方である。」(第38巻:明治37年)と書かれています。
観客の多さについては、明治44(1911)年に発行された『東宮行啓紀念写真帖』によれば「児童は1万2千、参観の父兄は約5万人」とあり、札幌ドームの収容人渦は53,000人ですから、その人数で小樽公園が埋まったことになります。
この連合運動会は大正時代になるとますます、参加児童数が増加し、プログラム進行に支障が出ること、あまりの人数のため児童が参加できる機会がへってしまうことなどの理由で大正11(1922)年に廃止され、各校の単独開催の形に移行します。衰退したのちの廃止ではないところに、小樽区民たちの熱狂ぶりがうかがえます。
連合運動会が行われていた時代は、小樽の黄金期と重なります。運動会の歴史にも小樽の歩みが反映しています。その運動会の歓声を今年は聞くことができません。現在調査中ですが、全校中止はおそらく戦後初めての事態ではないかと考えます。その意味でも歴史的な一年となっています。