小樽中央卸売市場の跡地から見えるもの
2024年6月から解体が行われていた、国道5号沿いの「小樽中央卸売市場」の跡地に行くと、すっかり痕跡もなくなっていました。
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この卸売市場と写真奥に見えている「小樽中央市場」は戦後、大陸からの引揚の皆さんが開設した、未公認の市場から始まっています。この写真で思い出したのは、その未公認の市場ができた場所が、戦争末期、昭和20(1945)年の建物疎開でできた防火帯であったことです。空襲での延焼を防ぐための防火帯はここと、花園の通称グリーンロードに設けられました。この空き地の光景は昭和20年以来の姿なのかもしれません。
また、ここが空き地になったおかけで、小樽の電力供給をになった「小樽電燈社」の跡地(右側の白いビル付近)もよく見えるようになりました。
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小樽電燈社
小樽電燈社は明治28(1895)年から小樽の市街地への電力供給を始めましたが、当初はここに火力発電所を建て、そこからの送電でした。
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しかし、周辺の市街地化が進んだこともあり、明治38(1905)年に入船に新築移転をします。このころ、この火力発電所を、稲穂小学校児童が見学をしていて、それが『稲垣益穂日誌』に記録されています。
「発電機ハ二台アリ、(略)一台ハ形大ニシテ傍ニ蒸気機関アリ。帯革ヲ用ヒズシテ直ニ回転セシムルヲ得。コレハ独逸国ノ製造ニテ、十燭ノ電燈凡八千箇ヲ点ジ得。其価五万円位ナリト。」(第19巻:明治42年)
当初は電灯に供給するのみでしたが、次第に機械の動力源としての供給も始まると需要に追い付かず、明治44(1911)年から王子製紙が支笏湖湖畔につくった水力発電所からの供給を開始することになります。市内での発電事業はここで終了し、現在の小樽警察署付近に変電所が建てられ、そこからの電力供給となります。
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さて、小樽の歴史の一部をになったここの空き地はどういう使われ方をしていくのでしょうか?