モースの発掘場所はどこ?
当館に寄せられたご質問の中に「モースの発掘場所はどこか?」というものがありました。また、「手宮にあった鉄道官舎の写真はないか?」というものがありました。今日はこの二つにかかわるお話をお伝えします。

旧手宮駅の東側、手宮中央小学校や手宮公園に上がる坂道の横、現在市営団地がある場所には、昭和後期まで、鉄道官舎がありました。遅くとも、明治20年代後半の写真には丘の上に同じ規格の建物が並んでいるのが確認できます。

昭和中期まで、手宮駅で働く人々に加え、石炭の積み出しで働く人々が多く住んでいた手宮地区ですが、国鉄職員向けの官舎が丘の上に建てられていました。
手宮公園下遺跡
傾斜のある土地でしたので、ひな壇状に切土と盛り土で宅地を造成していました。団地造成に伴い発掘調査が行われたのですが、予想以上に盛り土の部分が広く、その下には縄文時代前期から中期にかけての遺跡が眠っていました。それが「手宮公園下遺跡」です。そして、エドワード・S・モースが北海道で初めての発掘を行った遺跡がこの手宮公園下遺跡です。

モースは腕足類の調査を目的に、明治11(1878)年7月26日、小樽港へと入港します。上陸した(手宮付近か?)モースが茶店で土器を見つけ、それが大森貝塚で出土した土器(縄文土器)と同じ特徴があることに気が付きます。
「縄文」(cord mark)の命名者モースはさっそく遺跡に赴きます。「午後、堆積地点へ行って見ると、中々(quite)範囲が広く、我々は多数(quite)の破片と若干の石器とを発見した。」(『Japan day by day』)と記録しています。モースの記述では発掘地点の詳細について書かれていませんが、同行者、植物科学者であり詩人でもあった矢田部良吉(1851~1899)の日記にヒントがあります。
「二時頃食後浜辺ヲ経テ古土器出ツル処ヘ至リ(中略)当地ノ丘上ニ富次郎ト共ニ登レリ。得タル植物数種アリ。コノ丘ヨリ湊ヲ望ミシ所波平カニシテ景色甚宜シ。(中略)モース氏スデニ二個ノ古壺ヲ得タリ。形図ノ如シク飾ナシ。津軽辺ヨリ出ルモノニ類似セリ。」(矢田部良吉『北海道旅行日誌』:鵜沼(1991)より)

調査地点から丘をのぼると眺望の良い地点があること、さらに異なる特徴の土器が出土したことから推定すると、手宮公園下遺跡のいずれかの地点がモースの調査した場所ではないか、と考えています。
総合博物館本館が建つ手宮地区は「北海道鉄道発祥の地」でもあり「北海道考古学発祥の地」でもあるといえるでしょう。
