稲垣益穂が見た日本郵船小樽支店
「重要文化財 旧日本郵船株式会社小樽支店」は今からおよそ120年前、明治39(1906)年に完成しています。

完成当時の様子は新聞や写真からうかがい知ることができますが、稲穂小学校校長であった稲垣益穂の日誌(『稲垣日誌』)にも記録されています。
この年の10月1日に華々しく行われた落成式に、教育界の重鎮として稲垣も招待されています。
「午前十一時から郵船会社の落成式に招かれてゐたので之に出席した。郵船会社は去三十六年火災に罹った後、先づ倉庫を建築し、次に支店の建築にかゝったが、数年を経た今日漸く落成したのである。外面は全部石造で二階建になってをる。支店長室、来賓室、普通応接室、倉庫室、書籍室、食堂、会議室、執務室などそれぞれ立派に出来てをる。殊に貴賓室の如きは装飾の美、思の外立派なものであると忠った。それより手宮遊園地で種々の余興と饗応とがあった。」(第12巻 明治39年10月1日)

「貴賓室の如きは装飾の美、思の外立派なもの」とは、壁紙として「金唐革紙(きんからかわかみ)」を一面に貼りめぐらせたことを表現しているのではないかと推測しています。
経済都市小樽の中でも、抜きんでる存在であった日本郵船に関する記事はしばしば登場してきます。ときには、日本郵船から小学校卒業生を「店童」として採用したいので優秀な生徒を紹介してほしい、という記事もあります。その生徒の中からは、その優秀さから正職員となり、本州の支店長としてあいさつに訪れる、というシーンもあります。
手宮爆発事故
日本郵船の建物については、大正13(1924)年12月27日に発生した「手宮爆発事故」でその被害状況が記されています。

発生当時の様子も「余は暖炉の側に坐して新聞をよんで居ると、ツドーンと強い音響と共に家が動き、襖や天井が激動した。ハテ、地震かナ、或は屋上の雪止の鉄線が切断したかナと疑ひながら玄関先に出て見た。」と生々しく記していますが、翌日、被災現場を歩いた時の記述も詳細です。
「石蔵の壁の傾いたもの、壊れたもの、庇の落ちたものなど目につく。段々進んで爆発したヶ所へ近づいて見ると、埋立地の倉庫で非常に傾いて居るのもあった。」(第38巻 大正13年12月28日)

その後に「帰りに手宮町を歩いて見ると、郵船会社支店の窓は悉く破壊されて居った。」と日本郵船の被害が記されています。
昭和63年に実施された修復時の調査では、この災害をまぬがれ、調査当時も残存していた窓ガラスは3割程度、とくに港側(東側)に面した部分はかなりの被害を受けています。
