砂防堤と千登勢温泉
小樽公園の西端からは天狗山山麓がよく見えますが、山の手小学校のグラウンドが開けていることもよく見える理由の一つです。

ここには、かつてオコバチ川の砂防堤があり、池ができていました。


昭和初めの地図では、グラウンドの位置に「ときわ」の文字が、その奥に「千登勢温泉」の文字が見えます。温泉はラルズのあたりが池、その奥に料亭があったことが当時の写真から判明しています。

当時、稲穂小学校校長であった稲垣益穂は、この「千登勢温泉」についても開業まもない、大正2(1913)年10月に、「観楓会」の候補地として様子を見に行っています。
「千歳温泉の方へ廻った。これは近頃出来た浴場で、鉱泉をわかしてをるのである。併し湯の方よりは、池の方がよほど面白い。オコバチ川の上流をせきこんで造ったもので、小舟が浮べてある。」という記事とスケッチをのせています(稲垣は「千歳」としているが、「千登勢」の誤記)。
翌、大正3(1914)年発行のガイドブック『小樽』には「公園を控えての此の構えは、四時の顧客も繁かるべく」と書かれ、公園とセットで利用されていたことがうかがえます。稲垣益穂もこの後、県人会や教員研修会の打ち上げなどでここを会場として使用しています。
池の形
この千登勢温泉前の池の形については、地図によって表記が異なります。昭和7(1932)年の地図によれば、ラルズの部分が池、現在住宅地になっている部分、その後ろの4~5mの石垣部分までが、料亭なのかと考えています。

ところで、『稲垣日誌』のスケッチは北東側から見下ろす形で描かれています。こんな高い場所がみあたりません。稲垣先生が想像で絵の構成を考えたのかもしれません。現在ですと、山の手小学校の屋上からだとこの視点になります。しかし、そんなことはありえないので未解明のままです。
砂防堤
さて、現在の山の手小学校グランド付近にあった「千登勢温泉」はオコバチ(於古発)川の土砂が下流の市街地に流入し、水害を起こすことを予防するために作られた「砂防堤」の副産物の池を上手に活用していました。

明治30(1897)年に完成した砂防堤と池ですが、どうも池の名称は公式にはつけられなかったようです。明治末から大正にかけての地図では「砂防堤」の文字のみが記され、池には名前が書かれていません。

イラストですので正確なものではありませんが、『稲垣日誌』に掲載されている図の右下の道のようなものが「堤」だと思われます。
もう一つの砂防堤
ところで、明治30年に建設された砂防堤は、オコバチ川のみではありませんでした。同じく市街地に流れ込む色内川の上流部分、現在の「砂留トンネル」付近にも砂防堤が作られています。

こちらも池自体には名称がなかったようで、各時代の地図には「砂防堤」とのみ記されています。
当館所蔵の絵葉書「小樽色内川の上流」が、両側に山が迫っている地形などから、この砂防堤が生んだ池の光景なのではないか、と考えています。

これらの池、砂防堤はどうなったのでしょうか
オコバチ川の方は、戦後(1948年)の航空写真でも確認できましたが、長橋砂留の池については、昭和10年ころの地図から姿を消しています。ひょっとすると、昭和8(1933)年に行われた長橋―砂留間の道路拡幅で姿を消したのかもしれません。砂留の踏切近く、お弁当屋さん付近がその痕跡なのでは?と考えています。
