手宮大火以前の郵船支店
明治39(1906)年に建てられる以前の郵船支店の姿をご紹介します。
明治11(1878)年、日本郵船の前身「郵便汽船三菱会社」は小樽出張所を設けます。その後、合併により日本郵船となりますが、この当時の支店は明治36(1903)年におきた手宮大火によって焼失してしまいます。総合博物館はその焼失前の郵船支店の絵や写真が数枚残されています。
絵で見る
まずは絵を二枚紹介します。ともに明治20年代に描かれたものです。

『小樽港実地明細図』(明治26年)の挿図です。
支店の前には、すでに北海道の玄関となっていた小樽港でも数少ない専用舟入澗が描かれています。

また、支店の前には線路がありますが、これは官営幌内鉄道(のちに北海道炭礦鉄道)です。建設を急いだ幌内鉄道は、道路の上に線路を敷設する手法を取り入れていたのですが、店先を汽車が通る状況は決して安全ではありませんでした。
写真で見る
写真はいずれも明治30年代のものですが、同じく線路が支店の正面入り口のすぐ前にあります。

ここを石炭を満載した貨車をけん引して蒸気機関車が走っていたことになります。

蒸気機関車の横に大八車を引く男性が見え、安全柵などもありませんでした。
郵船支店が焼失した手宮大火の復興の際、郵船支店の山側に線路を移設しています。
防火対策の甲斐なく…
当時から日本を代表する海運会社でしたので、この焼失した支店も木造ながら鉄板などを葺き、防火対策は取っていたのですが、大火後「たとひ石造の倉庫でも、板屋根の上に亜鉛を張ったものや、戸前に鉄板などを用ひたものは皆ダメであったといふことである。郵船会社などは皆此類で失敗した」(『稲垣日誌』20巻:明治36年4月19日)と指摘されることになります。
繁栄の象徴的な存在
明治30年代の小樽は、函館と肩を並べる港町に発展していて、その象徴的な存在が、郵船支店だったのです。その意味でも木造とはいえ亜鉛葺きの屋根など、瀟洒な洋風建築でした。大火前の手宮地区の写真を見ても、商業地区として発展しつつあった色内地区よりも、大型の倉庫が建ち並ぶこの周辺地区が、いかに繁栄していたのかを見ることができます。

この写真の地域が全焼したのち、郵船の威信を示す、本石造の支店が建てられることになります。
