自動車
運河館第一展示室、一番奥の壁に、明治40年ころの色内通の写真を掲示しています。

学校利用の小学生たちへのレクチャーでは、この写真を見ながらいろいろな「発見」をしてもらっています。電信柱があることから電気がきていること、寿司屋さんの看板があることなどを見つけています。
自動車は?
その中に「自動車がいないのに歩道と車道がある」という発見をしてくれることがあります。
歩道を整備しなければいけないほど、馬車や大八車の通行が激しかったことがその理由として考えられます。
小樽での自動車はいつから登場?

乗り合いバスやタクシーなどの営業の開始は記録にありますが、個人所有の車はいつから存在したのか、確たる資料は、見つけられていません。
『稲垣日誌』には…
稲穂小学校の校長であった稲垣益穂の日誌(『稲垣日誌』)には、かなり早い段階と推測できる記述がありました。大正3(1911)年11月3日、稲垣ら市内の校長たちは各小学校の巡検を行いますが、その際、自動車を使用しています。
「直ニ用意ノ自動車ニ乗リテ、奥村氏方ニ疾走ス。速力ハ馬車ノ三倍程ナルモ、格別震動セズ、快云フベカラズ。(略)従来、学務委員ノ巡視ハ、大概二日ヲ要シ、後ニテ協議ヲ要スル時ハ三日ヲ費スガ例ナレドモ、本日ハ始メテ文明ノ利器タル自動車ヲ利用シタル為、僅ニ一日ニテ全部ヲ了スルコトヲ得タルナリ。而シ自動車料、借切僅ニ五円卜云へバ決シテ高キモノニアラザルナリ。」(『稲垣日誌』第22巻)
稲垣はその利便性に大いに感嘆しています。このころから小樽では自動車が普及し始め、「小樽新聞」でも大正6(1914)年になると、自動車事故の記事がしばしば登場します。

当館所蔵の写真では大正11(1919)の消防自動車の写真が年代のはっきりわかるものですが、それ以外の写真でも大正中期と思われるものが何枚かみうけられます。

小樽にとって『稲垣日誌』の存在は大きく、明治から昭和初期の庶民の暮らしをいきいきと伝えてくれます。
